ジークフリートとアストリットが偶然出会う話。ビスマルクが他の女の子と立ち話している描写があります。(浮気などではありません。)
集合時間より少し早く練習場に着くと、入口に女性の後ろ姿が見えた。ジークフリートにとってはじめて目にする人だった。その人は、毛先を内側に丸めた髪型をしていて、車椅子に乗っていた。
車椅子テニスの選手だろうか、とジークフリートは思った。練習場にはテニスコートが何面もある。ジークフリートが所属するU-17代表チームが半分以上を使用するが、地元の中学生や他のチームもいくつか使用しているので、知らない選手がいてもおかしくはない。ただ、白のブラウスに、チェック柄のスカートを着ており、これから運動をする人には見えない。なによりラケットを持っていなかった。それならばなにをしに来たのだろうか。
女性は入口からコートを見渡すように、手で車輪を動かしていて、中々進まない様子だった。それは道に迷っているようにも見えた。
ジークフリートはちらりと腕時計を見た。ここをなにもせず通り過ぎるのは、後ろ髪を引かれる気がする。ただ、少し早めに着いたとはいえ集合時間は刻一刻と迫っている。そんな思考が、ジークフリートの足の動きを一瞬止めた。
そのとき、女性は手を大きくひねり、ジークフリートのほうへ体を向けた。そして、大きな目でジークフリートをとらえると、勢いよく車輪を動かした。女性の髪がなびき、スカートが揺れた。ジークフリートの目の前で車輪を押さえると、車椅子はぴたりと止まった。
「突然話しかけてごめんなさい。教えてほしいことがあるの」
女性はジークフリートに明るい笑顔を向けて話しかけた。
「このあたりでテニスの練習してるチームはいる? U-17代表チームの人を探していて」
やはり選手などではなく、ただ迷っていただけなのか。そう思いながらジークフリートは遠くを指差しした。
「今日は奥側のコートを代表チームが使う予定になってるけど」
「ありがとう! 助かった。あ、もしかして、君もそのチームに入ってるの?」
「……ああ、まあ」
「やっぱり! ラケット持ってるし、目がきりっとしてて、スポーツ選手って雰囲気があったから、目が合ったときにそうなんじゃないかと思ったよ」
女性はそう言いながら、一段と華やかな笑顔を見せた。ジークフリートは必要なことだけ言って立ち去るつもりだったが、笑顔を見るとそうする気になれなかった。
「……そう」
「それなら話が早いね。案内してくれると助かるんだけど。もちろんコートには入らないし……ただ、少し眺めたいの」
女性はきっぱりとした言い方をした。それでもジークフリートは嫌な気持ちにならなかった。代表の人を探してると言っていたが、誰かのファンだから取り持ってもらおうという魂胆があるとか、そういう風には見えなかった。なにかプライベートな理由があるんだろうと思った。
ジークフリートはその人の目を見て、こっちと言いながら前に進んだ。女性は車輪をつかんで、ジークフリートの隣に並んだ。
「誰かに用があんの?」
ジークフリートは前を見ながら尋ねた。個人的な用事なら、誰かの家族とか、親族という可能性があるが、頭をめぐらせてもチームメンバーに似ている人はいないな、とそんなことを思いながら。
「うん、知り合いの様子を見たくて」
「知り合い?」
ジークフリートが想像していた答えより、曖昧な間柄を言われたので、横を向いて聞き返した。
「……ミハエル・ビスマルクっていう人」
女性は言った。
その名を聞くと、ジークフリートの心臓が大きく鳴った。そして、驚きのあまり足を止め、隣に目を向けた。女性は右手で髪を耳にかけ、ジークフリートのほうを見上げてほほえんだ。
ミハエル・ビスマルクはドイツ代表の副主将で、ジークフリートのダブルスパートナーをしている。
ジークフリートは少し前のとある雪の日の出来事を今でもたまに思い出す。
自滅した試合、冷え切った風、大粒の雪。そしてその先に見えた、丸を描いた指先と長身の男。
元々ジークフリートは彼のことを知っていた。実力のある高校生だったし、堅物が多いチームの中でも、気さくな人だと思っていた。ただ、みっともなく負けて誰からも期待されなくなった自分に声をかけるとは思ってもみなかった。
彼の言葉は単なる慰めではなく、具体的なものだった。二位である現状をどうとらえるか、ジークフリートがチームの中でなにを果たすべきなのか。その言葉を聞くと、ジークフリートの瞳には、大粒の雪が光に照らされたようにまぶしく映った。そして、ジークフリートはもう一度ラケットを握った。
それからも、ミハエルとジークフリートの関わりは続き、そのうちにダブルスを組むことになった。ただでさえ莫大な練習量があるチームであるが、時間を合わせてふたりでダブルスの練習をしていた。
その日もジークフリートはダブルスの練習をするつもりだった。けれど、全体練習が終わったあと、ミハエルはさっさと片づけをしていた。
「今日もするんだろ、ふたりで練習」
ジークフリートはラケットバッグを肩にかけるミハエルに声をかけた。
「ああ、悪い。今日は予定があるんだ」
ミハエルは言った。
「なんだよ、聞いてねーんだけど」
ジークフリートはあからさまに嫌がるような態度をとった。今の自分たちにテニスの他にやるものがあるものかと問いつめたくもなった。すると、ミハエルは困ったような顔をして、ジークフリートに近づいた。
「……ったく、ジークだけだからな。他のやつには言うなよ」
ミハエルはほほが触れるか触れないかの距離まで近づいた。そして、ジークフリートの耳元でささやいた。
──今から彼女に会いに行くんだ。
上ずった、甘い声色をしていた。ジークフリートはその声を聞くと、その場から動けなくなった。
ミハエルは離れたあと歩いて行ったが、もう一度ジークフリートのほうを振り向いた。そして、ラケットバッグからなにかを取り出して、それを放り投げた。ジークフリートは投げられたものをてのひらで受け止めた。自分が好んでいるグミの袋だった。
「これで許してくれ。また明日な」
ミハエルはそう言って、足早にコートを立ち去った。ジークフリートの手にはグミの袋、耳にはあの上ずった響きが残った。
彼女というのは、単なる女性を意味しているのではなく、恋人だということはすぐにわかった。けれど、ミハエルに恋人がいることをジークフリートは知らなかった。あまりに突然のことだったので、ジークフリートはとても驚いた。ジークフリートはグミの袋を握りしめ、しばらく立ち尽くした。
ジークフリートはそんなことを思い出した。この出来事が頭を巡ったのは、隣にいる女性がミハエルの彼女なのだという直感に他ならなかった。存在以外なにも知らない人を目の前にしているのは、まるでドラマの登場人物に出くわしたと思うくらい、不思議な感覚だった。
「……ミハエルの彼女」
ジークフリートは直感に従って、つぶやいた。
「あら、知ってるの。それなら、もしかしてあなたはジークフリート?」
彼女はジークフリートの顔をのぞき込みながら言った。ジークフリートはそれに対して言葉を出せず、軽くうなずくだけだった。
「ジークだね。うん、聞いてる。ミハエルからチームメンバーの話はたまに聞くんだけど、本当にあなたのことが大好きだよ」
彼女は明るく言った。
「ミハエルが……」
「この前の冬くらいからかな。『いいやつを見つけた。ジークフリート、あいつはこれからどんどん成長する』って話してたの。あんまり楽しそうだから、はじめは車の話をしてるのかと思ったよ」
「車?」
「うん。ミハエルは車も大好きだから、ジークフリートってカーレースの選手かと思ったよ。それからフランケンでしょ。今年に入ってからは、そう、クニミツね。名前の響きからして、いよいよ外車にハマったのかと思って、どこの国の車? って聞いて、ようやく話がずれてたのに気がついたの。まあ、いろんな人のこと話していたけど、ミハエルはジークが一番好きだよ。期待してるのはもちろんだけど、信頼もしてるし」
ミハエルは誰とでも気さくに話をするタイプだった。プロのボルクとも臆せず対等に話すし、年下にだって気兼ねなく接する。だから、他人からであってもミハエルから好かれているとか、期待されているとか言われるのは、ジークフリートにとって嬉しくも、むずがゆくもあることだった。
「あら、顔赤いよ。照れてるの?」
彼女は言った。
「そんなんじゃ……!」
ジークフリートは口元を腕でおおいながら、慌てて答えた。
「あはは、ごめんごめん。からかってないよ。ミハエルから聞いてるとおりだね。ジークは素直で努力できるやつだって」
ジークフリートはその言葉に、うなずきも返事もしなかったが、彼女はほほえんでいた。おだてようとか、機嫌よくしようとか、そんな社交辞令は思っていない、自然な笑顔だった。だから、ジークフリートも、彼女の言葉を受け止めることにした。
ミハエルが自分のことをそんな風に話してるなら、普段ふたりはどんな話をしているのか、とジークフリートは思った。テニス、チームメイト、ミハエルの好きな車の話題。他には学校や家族のこと、そんな日常のことだろうか。普段は副主将としてチームを牽引し、頼もしい彼が、彼女と些細な話をしている姿を想像すると、いつもは大人びた彼にも年齢相応の顔があるのだと思った。
「あ、ミハエルだわ」
彼女はそう言うと、車輪をぴたりと止めた。U-17代表チームが使っているコートからだいぶ離れたところだった。ジークフリートは少し目を動かしたが、ミハエルの姿を見つけられなかった。
「知り合いなら、もっと近づいてもいいと思うぜ」
ジークフリートは言った。
「うんん、ここでいい。話しかけるつもりなかったし」
彼女は遠くを眺めるように目を細めた。
ジークフリートも目線を奥にやった。すると、コート外側のフェンス際にミハエルが立っているのがわかった。ひとりで佇んでいるのではなく、誰かと立ち話をしている様子だった。
まさか、とジークフリートは思った。もう少し目を凝らして見ると、ミハエルの前には、彼よりも身長がずいぶんと低いふたりの女の子が彼の前に立っていた。どちらが話しかけたのかわからない。ただ、ミハエルはふたりに気さくな笑顔を向けて、楽しそうに話をしていた。そんな光景は今まで何度も見たことがあるから、珍しくもなんともなかった。ただ、毎日あるわけではないので、なぜ今なのか、とタイミングの悪さを恨んだ。
「……俺、ミハエルに話しかけてくる」
そう言うジークフリートの声は抑揚はなく静かだったが、力がこもっていた。すると、彼女はジークフリートの前にそっと手を出した。
「あ、いいの。気にしないで。私、知ってるから」
彼女は言った。ジークフリートはわき上がる感情から目を覚まし、隣を見た。
「でも、いいのかよ、ほんとに……」
「うん。何回か見たことあるんだ」
彼女はジークフリートを見上げながら、柔らかい口調で言った。怒るでも悲しむでもなく、落ち着いた様子だった。
「ミハエルって、小さい頃はなんでもはっきり口にするタイプだったから、よく人と喧嘩したし、女の子からもそんなに人気なかったの」
彼女は遠くの姿に目線を移して、話をはじめた。
「ある頃から、ぐんと背が伸びて、顔つきも性格も大人っぽくなったの。彼が注目されるようになったのはその頃くらいからね。年頃の男の子だし、いろんな人と話せて楽しいんじゃないかな」
ジークフリートは黙って話を聞いていたが、かすかに目を見開いた。小さい頃のミハエルの姿は、今の姿からはとても想像できなかったからだった。彼女は過去のミハエルのことを話したが、懐かしむ様子はなかった。遠くにいる今の彼をまっすぐに見つめていた。
「同じくらいの頃からテニスもうまくなったの。まあ、テニスがうまくなるほど隠し事も増えていったんだけれど」
「隠し事?」
ジークフリートは聞いた。
「うん。女の子と話してるのも全然そぶりは見せないし、些細な会話で嘘とか隠し事をしてくるの。U-17代表チームでオーストラリアに行くって聞いたときも、『俺は補欠だから試合にはでれねぇんだ』って言ってて。でも、副主将をやってるんだよね。調べればすぐわかる嘘なんかついて……きっとチームメイトにも私のことを話していないんでしょう?」
「……聞いているのは俺だけだと思う、多分。俺もついこの間聞いたばっかだし」
「やっぱり。周りの人にも隠し事ばっかりだね」
彼女は笑いながらそう言った。
ジークフリートが所属しているU-17代表チームはテニスの信頼関係でつながっている。違う言い方をすればプライベートには不干渉であった。鷲マークを背負う覚悟があればチームメイトの出身地は不問だし、わからなかったとしても深く追うことはしない。
そんなチームだから、コートの外で誰と話していたとしても、干渉はされない。聞いたところで「ああ、あの子はファンだよ」と答えれば、ファンを大切にする主将は静かに頷き、追求されることはない。
ミハエルはコートの外でいろいろな人に話しかけるし、話しかけられてもあしらうことはしない。ジークフリートと同い年の選抜候補は「いったい女が何人いるんだ」と笑い話にしていた。ただ、彼の言動を笑い話にするのをジークフリートは好まなかった。
ミハエルがなにを思ってコートの外で人と話しているのか、そして彼女の存在をむやみに言ったりしないのか、本当のことは誰にもわからない。そして、なにより彼は悟られないように振る舞っていた。
しかし、そんな彼のことを彼女は「知ってるから」と口にした。幼い日の姿、他の女の子と話していること、チームの副主将であること……。それだけではなかった。彼女の瞳には様々な彼の姿が映っていた。今の彼だけを切り取るのではなく、広い時間の中の彼を包み込むように見ていた。遠くにいる彼を見つめる彼女には、なにかを知っている人の、より深いところに立っている静けさがあった。
ジークフリートはそんなことを肌で感じ取ったが、彼女の雰囲気を口で表すことは決してできなかった。
「そうだ、ダブルスでミハエルは頼りになる?」
彼女は再びジークフリートの顔を見て言った。
「そりゃあ、もちろん」
ジークフリートは即答した。
「あはは、それはよかった。ミハエル、タイブレークなら絶対負けないよ」
彼女は力強く言った。ジークフリートはその言葉から彼の二つ名を思い出した。
ミハエルは、コートの上でもなにかをずっと隠していて、自身の手の内を悟らせない。そしてタイブレークになると、相手を自信に満ちた瞳でとらえ、勝利を確信したようなほほえみを向ける。その強さが、ミハエルのすごみだったし、ジークフリートも頼りにしていた。
そして、彼女の言葉は未来の勝利すら確信しているものだった。それはミハエルがタイブレークのときに見せる自信とよく似ていた。
「……そうだな」
ジークフリートはテニスをしているミハエルを思い浮かべながら、静かに答えた。
それから、コートの外にいるミハエルをふたりで眺めていた。ミハエルは話している人に手を振ると、どこかへ歩きだして、姿が見えなくなった。
「あ、だいぶ時間経っちゃったみたい。ジーク、いろいろ話を聞いてくれてありがとう」
ミハエルが見えなくなると、彼女は目を覚ましたように言った。言われてみれば彼女と話し始めてから、だいぶ時間が経った気がすると、ジークフリートも思った。
「案内も助かった。じゃあ、私、行くね。また会えると嬉しいわ」
「ああ、またどこかで」
彼女は前に進んで、一旦振り返った後、笑顔を向けて大きく手を振った。ジークフリートも軽く手を上げた。そして、ジークフリートはコートのほうへ歩き出した。
なんとも不思議な時間だった。話でしか聞いていなかった人と偶然会い、ダブルスパートナーの知らなかった一面を聞いた。
ジークフリートは、ミハエルから期待と信頼されているという言葉が心に残っていた。本人から言われてはいないし、彼の言うことには嘘も多いが、信じてみてもいいだろうかと思った。
そういえば、そう伝えてくれた彼女の名前はなんだろうか。ジークフリートはようやく名前を聞き忘れたことに気がついた。なんというのだろう、ミハエルの彼女は……。
「おい! ジーク!」
そんな考えごとをしていると、正面から、聞き馴染みのある声が聞こえてきた。長身の男が、走りながらジークフリートに近づいてきた。
「ミハエル」
「集合時間からもう3分過ぎてるぜ」
「うわ、まじかよ!」
「ほら、ぼけっとしてないで、走るぞ」
ジークフリートは頭を切り替えて、ミハエルと一緒にコートに向かって走り出した。
「珍しいな、いつも早めに来るのに」
ミハエルは言った。
「……今日はたまたまだよ」
ジークフリートはごまかすように小さな声で言った。ミハエルは他の女の子と話していたし、時間も遅れてしまったので、ミハエルの彼女とばったり会ったとは、なんとなく言いだせなかった。
「早く謝んねぇと。監督はグミ禁止令だそうかって言ってるし、クニミツはもう緑茶を飲ませないってさ」
「げ、どっちも地味に嫌なやつ……」
「まあ、親切なジークが可愛い女の子の道案内をしてたってことにしといてやるからよ」
ミハエルはジークフリートのほうへ振り向いて、笑いながら言った。ジークフリートはその言葉に少しだけ驚いた。言い方はどうであれ、先ほどの出来事とよく似ていたから。
ただ、向けられた表情はジークフリートにとっていつもの笑顔に見えた。歳上の余裕があり、親しみやすいもの。それならば、この表情の意味を彼女に聞いてみたくなった。ミハエルのことを深く知っている、あの彼女には彼の笑顔がどう映るんだろうか。ジークフリートは走りながら、そんなことを思った。