幼少期~蹄鉄の話。過去の思い出など捏造たくさんあります。
記憶の底をたどると、幼い私はいつも窓際のベッドにいて、窓から園庭を眺めていた。
それでも、さみしくはなかった。家には親戚の人や近所の友達、かかりつけのお医者さん、お母さんの知り合いなど、いろんな人がやってきたから、早くお客さんが来ないかしらと、庭を見ながらわくわくして過ごしていた。
お客さんはプレゼントを持ってきて、穏やかな声で話しかけてくれた。幼い私は何と答えていいかわからなくて、にこにことほほえんでいた。そうすると、お客さんは喜んでくれた。みんなで笑うと、家の中はにぎやかになる。そういう時間がとても楽しかった。
お客さんが帰ると、家の中は祭りが終わったかのように静まりかえる。そのころには外も暗くなっているので、私はお母さんと寝る支度をはじめる。
お母さんは寝る前にいつもベッドの隣に腰をかけて、私の手を握りしめた。そして、静かに願っていた。私がよく眠れますように、健康で過ごせますように。その姿を見るたびに胸がじんわりと温かくなった。きっとこういうのを幸せって言うんだわ、と幼い私は思った。
これ以上求めることはない。だから、いつか歩けるようになるの? と聞いたことはなかった。にぎやかな人達と優しい家族に囲まれて、私はいつでも幸福の真ん中にいた。
彼にはじめて会ったのは、秋のはじまりの頃だったと思う。庭の緑に少しだけ濃い色が混ざってきて、なんだかさみしさを感じていると、庭を通り過ぎる男の子が目に入った。はじめて見る彼は、お母さんであろう人と並んでいた。どんな子なのかしらと私は思った。
しばらくすると、部屋のドアがこんこんと鳴った。きっと庭で見た男の子だな、と思いながら私は返事をした。すると、勢いよくドアが開いた。予想どおり、庭を歩いていた男の子が立っていた。彼はきょろきょろと部屋を見渡したあと、ベッドの横にある椅子に座った。そして、私の目を見て、本当に歩けねえの? と聞いた。私はそうよ、と笑顔で答えた。きっとお母さんから、私のことを聞いてきたんだろう。同い年くらいの子にはじめて会うと必ず聞かれるから、彼に会ったころにはもう慣れっこになっていた。彼は、ふうん、とうなずいた。今思えば、彼が私の脚のことを聞いてきたのはこれが最初で最後だった。
「私、アストリットよ。あなたは?」
私は言った。
「ミハエル。この部屋っておもちゃばっかりなんだな」
ミハエルは椅子から立ち上がり、ずらりとおもちゃが並ぶ部屋の棚を見上げながら言った。
「うん。家に来た人が、みんなくれるの。どれもかわいいでしょ」
「見たことねーやつばっか。オレんち、オレと兄貴だし」
ミハエルはそう言いながら、棚に飾ってあったドールハウスを珍しいものに触れるように、指でつついた。
「そう? ミハエルはどんなおもちゃ持ってるの?」
私は聞いた。すると、彼はリュックを手に取り、おもちゃを取り出した。あざやかなスカイブルーのフィギュアだった。それを私に手渡した。
「な〜にこれ、車?」
私はくるりと手首を動かして、裏面までまじまじと見た。
「おい、落とすなよ」
「そんな、落とさないわよう。こんなおもちゃもあるんだ、はじめて見た。素敵ね」
「な、かっこいいだろ!」
私がそう言うと、ぱっと表情を明るくして、私の隣の椅子に座った。そして、車について説明してくれた。どこのブランドで、ボディの色はこうで、エンジンは……。
フィギュアの話が終わると、リュックから別のものを取り出した。車のパンフレットだった。それをめくりながら、ここのブランドの車が好きなんだ、とまた話をはじめた。彼の話す車のことはさっぱりわからなかった。けど、パンフレットの写真に目を惹かれた。かっこいいアングルで撮られた車、青空の下に広がる道、高層ビルの隙間道。どれも知らない景色だった。それを見ると、世界が広がる感じがした。彼は自分の好きなことを話しているだけなんだろうけれど、私の知らないことばかりだった。だから、目を輝かせながら話すミハエルを見ていると、胸の奥がつやつやとした楽しさでいっぱいになった。
いつの間にか窓からはピンクとオレンジの混じった色の光が差し込んでいた。あまりに夢中になっていたので、ずいぶん時間が経っていることに気がつかなかった。そのうち扉の向こうから、ミハエル、と呼ぶ声が聞こえた。彼はパンフレットを閉じて、椅子から降りた。私は部屋から出ようとする彼に声をかけた。
「ミハエル、今日は楽しかった。ありがとう。ねえ、そのパンフレット、くれない?」
「はあ?」
「車のパンフレット、また見たいよ。だから、ほしいわ」
「バカだなー。やんねーよ」
私がほほえみながら言うと、ミハエルは大げさに言った。
「父さんに頼んでディーラーに連れてってもらって、ようやく手に入れたのに。なんで渡さなきゃいけねーんだよ。アストリットって、案外図々しいんだな……その、かわいいのに」
ミハエルは目をそらして言った。私は欲しいと言って品物をもらえないのも、図々しいなんて言われたのも、はじめてだった。その言葉があまりに面白くて、声に出して笑った。彼は、なんだよ、と言いながら戸惑っていた。しばらくすると、彼のお母さんが部屋にやってきて、彼は出ていった。
それから一週間ほどしたころ、夕食のときに、お母さんが不思議そうに話しはじめた。
「ポストにね、車のパンフレットが入ってたの。お父さん宛の宣伝かなって思ったら、アストリットにだって。おかしいよね」
それを入れた人が誰なのか、私はすぐにわかった。絶対にミハエルだわ! 私はすぐに夕食を食べ終えて、ミハエルに電話したい、とお母さんに頼んだ。
「あの、ビスマルクさんちの弟くん? いいけど……」
お母さんは電話帳をめくって、電話をしてくれた。私は「ミハエル、届いたよ。ありがとう!」と大きな声で言った。『大切にしろよ』と返事が聞こえた。得意げで、満足そうな声だった。
私はそのパンフレットをベッドからよく見える棚に置いた。かわいいぬいぐるみやおもちゃの中にある、車の写真が特別なものに思えて、私はとても気に入った。
それから、ミハエルはたびたび私の家を訪れた。彼と一緒にいる私がとても楽しそうにするから、お母さんがよく呼んでくれたのだと、もう少し大きくなってから聞いた。そんなこともあり、私達はすぐに仲良くなった。
ミハエルと出会ってから何回も季節がめぐったころに、窓から庭を眺める日々は終わりを迎えた。私は外に行けるようになった。私はいろんなところへ行きたいとせがんだ。そんな私を見てお父さんが困っていると、ミハエルが、じゃあ俺が、と付き添ってくれた。
彼とはいろんなところを散策した。彼が私の家へ迎えに来て、二人で並んで進む。ミハエルは、私に変に気を使うことはなかった。私達は出会ったときからいつも対等だった。
ミハエルは道を覚えるのが得意で、街中を案内してくれた。車がよく見える大通り、街で一番人気のアイスカフェ、彼が通いはじめたテニスコート。世界ってこんなに広くて、私の知らない景色がたくさんあるんだわ。彼と街へ行くたびに、私は彼がはじめて車のパンフレットを見せてくれたときの気持ちを思い出した。前から澄んだ風が吹いて、世界が伸びやかに広がっていく感じ。そんなものが、私の心をいつも新鮮に満たした。
そうやって、何度も二人で出かけるうちに、私は気がついた。彼は私の進むテンポを気にしていること。私が進みやすい道を選んでいること。口調は荒いけど、案外人のことをよく見てるのね。そんなことを思いながら、彼の横顔をながめていると、彼と目が合った。すると、彼はいきなり立ち止まって「付き合って、くれねえ?」と言った。私はわくわくしながら「どこへ連れてってくれるの?」と聞くと、彼は「そういう意味じゃない!」と顔を真っ赤にして怒った。私はきょとんとしたあと、意味を理解して大笑いした。私にとってミハエルの隣にいるのは自然なことだったから、改まって言われるとなんだか照れてしまった。でも、最後は彼の目を見てまっすぐ見てうなずいた。
付き合いはじめたからといって、ミハエルはなにも変わらなかった。私達にとっては些細なことだった。
ただ、周りからは浮いて見えたのか、彼と一緒にいると、茶化してくる子に時折会った。その度にミハエルは「なんだよ、俺達付き合ってんだから、一緒にいてなにが悪いんだよ」と言いたいことをはっきりと言葉にしていた。私は彼のそういうところが大好きだった。
確かあの日は、よく晴れていて、まろやかな陽気だった。その天気を見て、ミハエルは近くの公園へ連れていってくれた。
ミハエルは、テニスをはじめてから身体がぐんと大きくなった。私を車椅子から降ろして、ちょっとの距離なら持ち上げて歩けるくらいの力もついた。出会ったころは、私の部屋にある大きなおもちゃも持ち上げられなかったのにね。男の子ってこうやってすぐ大きくなるんだわ、と思った。私は頼もしさとさみしさを混ぜたような気持ちをおぼえた。
ミハエルは私を木の根元に置いてくれた。私は手で地面をさわさわとなでた。小さい頃は感じられなかったから、公園に来るたび味わっていた。服越しに伝わってくる土の柔らかさや、ひんやりした草の触り心地が好きだった。
しばらく、なにも話さずに座っていると、公園の中央から、笑い声が聞こえてきた。顔を上げると、私よりも小さい子達が、走って遊んでいた。こういう光景は何度も見たことがあるから、いつもはなんとも思わない。けれど、今は胸が苦しくなった。私は先日の出来事が頭によぎって、思わず口を開いた。
「私ね、この前、半年ぶりに大きな病院に行って、何日もかけて検査をしたの」
さらりと風が吹いた。結ってある髪の先が少しだけはためいた。ミハエルは大きく目を見開いて、こちらを見た。
「私の脚は、治らないことはないみたいなの。でも、この国では治療できるお医者さんがいなくて遠い国にとんでもないお金をかけて行くしかないって。お父さんとお母さんが一生かけて働いても、足りない金額で、それに行ったところで本当に治るかどうか……」
最後まで言葉を続けることができなかった。顔を膝につけてうずくまった。
まぶたの奥には、周りの人のことが思い浮かんだ。家族や家に訪れる人達は、いつも私のことを気にかけてくれて、みんな優しかった。幼いころから今まで、私は守られて生きてきた。これ以上望むものなんてない。
でも、なぜだろう。今だけはなぜか、どうしようもなく胸の奥が締めつけられる感じがした。
「なーんだ、そんなことかよ。簡単じゃん」
ミハエルはいつもどおりの口調で言った。私は顔を上げた。すると、彼は私の耳元に口を寄せた。そして、私にだけ聞こえるように、言葉を口にした。
ミハエルは言い終わると、私の目をまっすぐ見た。その時の彼の表情も、光の景色も、緑の香りも、全部覚えている。ミハエルは自信が満ち足りたように笑っていた。陽射しは天国から照らしてくれているように柔らかく、透き通る緑の香りが風に乗ってやってきて、私達を包んだ。
ありきたりな言い方だけれど、目に映る世界のすべてが輝いて見えた。生きていれば、こういう忘れられない瞬間ってあるんだわ。私は確信して思った。
それからは、その言葉を何度も思い出しては、宝物のように大事にした。
☆
「アストリットはミハエルが近くにいるから勘違いしてるよ。男の子はみんなスポーツが上手いわけでも、車好きなわけでもないよ」
中学に進学して、友達に彼氏ができたというので、私は「彼はどんな人? 好きな車は? なんのスポーツやってるの?」といろいろ質問をした。すると、友達はあきれながら私に言った。
「そんなあ、わかってるわよ」
「えー、ほんとかなー」
私は笑いながら答えたけど、あまり実感はなかった。同い年の男の子のイメージは、やっぱりミハエルだった。
車がとびっきり好きな男の子なのは相変わらずで、変わったことといえばよく持ち歩くものが車のおもちゃからテニスのラケットバッグになったくらいだ。
彼が地元のテニス大会に出るというから、試合を見に行ったことがある。試合中の彼は全身でテニスを楽しんでいて、見ていてとてもわくわくした。周りの人からは、ミハエルはテニスが上手いよ、と聞いていていたけど、本当だったんだ! 私は感激した。決勝戦はずいぶん長引いて、最後に負けてしまったけど、彼に会うと「次は勝つところ見せてやっからよ!」と明るく笑っていた。
そのころは、週末のテニス練習終わりによく会っていた。時折練習を休むから会えないと連絡がくることもあった。そのたび私は、電話口で「そうなのね。じゃあ、また今度」ととぼけた返事をしていた。
けれど、彼がなにをやっているのか、私はわかっていた。彼は練習をサボって、カーレースを見に行っているんだ。練習を休む日は、決まって好きなカーレースチームの試合があるのに、どうしてわからないと思っているのだろう? ずっと一緒にいるのだから、そんなことを当てるのなんて簡単だった。
先週は会えなかったけど、今週末は会おうぜ。調子のいい声でそう電話がきたのは、数日前のことだった。このところ会うのは一週間おきになり、カーレースで忙しいんだなと思っていた。
窓の外を見ると、空はぼんやりと曇っているように思えた。私はクローゼットから厚めのワンピースを引っ張り出した。外に出てみると、風は少しも吹いておらず、寒くはなかった。私はお決まりの場所に行き、いつものように彼を待っていた。
そのうち、練習を終えたミハエルがやってきた。うなだれているのを、私はすぐに気がついて、つついてやった。彼は怒るかと思ったら、すぐ調子のいいことを言ってきた。そんな他愛もない会話をした。なんでもない日のはずだった。
私はさっさと準備をしてトランプをはじめた。ミハエルの戦術はいっぺんとおりで、簡単に勝つことができる。今日もほとんど同じ流れで進んだ。いつもなら素直な彼らしいと思うけれど、その時は彼のテニスが目に見える気がして、少しだけ切なくなった。
気づいていないだろうけど、私はミハエルのことなら、なんでもわかっちゃうのよ。私はそう思いながら、口を開いた。
だから、おおごとにするつもりはなかった。私達はいつでも対等で、言いたいことを伝え合っていた。けれど、彼はみるみると表情を変えていった。
私達の間に風が吹いた。ふたりを分かつような冷たい風だった。気がつくと、彼は背を向けて歩き出していた。私は彼を追いかけようと、咄嗟にハンドリムに手をかけた。
けど、動かすことはできなかった。ミハエルはもう絶対に振り返らないと分かったから。彼は、私が追いつけないような、あんな速さで歩いたことはなかった。
私は瞬きをするたびに小さくなる背中をただ見つめることしかできなかった。そして、いつしか見えなくなった。
それから誘いの電話は、糸が切れたようになくなった。それでも私は、週末にお決まりの場所へ向かった。お気に入りの服を着て、トランプを用意して、彼を待った。絶対に来ないとわかっていたけれど、もしかしたら、と期待のような甘えを捨てられなかった。もちろん、彼が現れることはなかった。
数か月経ったころ、その期待もすっかり消えて、私はいつもの場所へ行くのをやめた。
ちょうど同じころ、私の友達から週末に彼が行っている場所を見つけたと連絡があった。ミハエルのことを話題に出さなくなった私を心配して、探してくれていた。彼はカーレースを見に行くのでも、他の女の子の隣にいるのでもなく、地元で一番大きなテニスコートに入り浸っているそうだ。
私は友達と一緒に、彼がいるという練習場へ向かった。会うのに迷いがあったので、コートに近づくことはできなかった。遠く離れた場所で手を止めて、ぐるりとあたりを見渡すと、コートの中に彼を見つけた。
それはもう、必死な表情だった。一回り大きな相手と試合をして、何度転んでも、ラケットを落としても、ボールに食らいついては、打ち返していた。いつかの試合で見た、楽しそうな様子からは考えられない姿で、真剣さからくる怖さすらあった。
友達は、もっと近づく? と言った。私はなにも答えずに首を振った。今近づいたとしても、きっと彼は私の姿に気がつかないだろう。私が彼の視界に入る余地はもうなかった。私は静かにテニスコートに背中を向けた。
テニスコートで彼の姿を見てからは、週末がくるたびひとりで街に行き、ミハエルと訪れた場所をめぐった。
車がよく見える大通り、街で一番人気のアイスカフェ、彼が昔通っていたテニスコート。案内はいつも彼に任せっきりだったので、ひとりでめぐるのは宙ぶらりんな気持ちだったけれど、その場に立つと古いアルバムをながめるように記憶が蘇ってきた。
大通りでは車の数とエンジン音に圧倒されておびえていると彼は私の肩をつかんで笑っていたし、アイスカフェではいつもフレーバー選びで盛り上がったし、テニスコートに行ったとき、彼はテニスではじめて勝った試合のことを自慢気に話したりしていたっけ。
街に向かうたびそんな思い出が頭に浮かんだ。彼との思い出をたどっている感じがした。
それに、彼と歩いた道は、私の家からなだらかに伸びていて、進みやすかった。下を向くと、彼の温かい足跡が見える気がした。懐かしいけれど、胸の奥が痛む道のりだった。
ミハエルと進んだ道をめぐり尽くしたころ、私は行ったことない道に行ってみたくなった。道を覚えるのが苦手だけれど、ひとりでたくさんの場所に行って自信がついたし、なにより違う景色を見たいと思った。
私は顔を上げて、街を眺めながら進んだ。ずっと住んでいる街なのに、知らない風景やお店がたくさんあった。
その道のりを進むと、段々とつらさは消えていった。すると、景色はやたら広々としていて、明るく見えた。けれど、実際にそうなのではない。私の心がそう映すんだ、と思った。私は車の通らない小道で両腕を伸ばした。生ぬるい風が私をなぐさめるように甘く包んだ。
☆
その日もひとりで出かけようと、玄関で支度をしていた。行く場所を考えていると、ひとりで湖を見たことはないな、と頭に浮かんだ。それなら、行ってみよう。私はわくわくした気持ちで家を出た。
そう遠くない距離に、湖を見渡せる高台がある。そこまでの道のりは入り組んでいるけれど、地図を見ながらゆっくりと進んだ。そして、地図の端にあるなだらかな坂道を下りきると、高台にたどり着いた。
人影はなくひっそりとした場所だった。目の前には見たかった景色が広がっていた。湖だ。夕暮れの湖は、空の青さと陽の光が交わり、特別にきらきらと輝いて見えた。風がなびくと、水音が穏やかに響き、水面の輝きは形を変える。一瞬でも形を留めておけない景色は、どこまでも美しく、人の手では変えられない神聖なものに思えた。
そんな、いつまでも飽きることのない景色を眺めていた。
しばらくすると、水音にまぎれて、遠くから足音が聞こえてきた。はじめは小さかったが、どんどん高台へ近づいてくる。その足音がぴたりと止まると、高台の柵に人の気配を感じた。人気のないところだから、他の人がくるとすぐにわかるのね。そう思いながら、どこか導かれているように、私は視線を動かした。
──夕暮れに照らし出された横顔が見えた。ミハエルだった。
動揺はしなかった。もう会えないとは思っていなかった。
彼は迷っているような表情で遠くの一点を見つめていた。私は彼の考えていることがすぐにわかった。今日の試合はいいところで負けて、くやしがっているんだ。そういう素直なところは変わっていなくて、自然とほほがゆるんだ。
彼はラケットバッグを脇に置き、右手にはなにかをぐっと握りしめた。そして、身を乗り出して、それを湖に向かって思いっきり投げた。
すると、強烈なまばゆさが私の目に飛び込んできた。瞬間、風がぴたりとやみ、水音は静まり返り、水面の輝きは消えたように感じた。その中でまばゆさだけが強い光を放ち、ゆっくりと弧を描いて動いていた。
私はそのまばゆさに目を凝らした。すると、彼が投げたものがなにかわかった。蹄鉄だ。この岩場と蹄鉄の話は地元では有名で、もちろん私も知っている。物好きな人が試してみても岩場にはとても届かず、数日続けると飽きてしまうと聞いていた。誰しも夢物語だと思っている話だ。けれど、彼の姿からは、夢物語とかそんなことは感じられなかった。
ミハエルは力強く願うように蹄鉄を投げていた。それは、私の知っている静かな願いとは違った。鮮烈で、切実で、果てしないエネルギーを持っていた。そして、彼がなにを願っているのかもすぐにわかった。だって、私はミハエルのことならなんでもわかっちゃうんだもの……。
蹄鉄は湖に浮かぶ岩場に弾かれて、水面に吸い込まれていった。そのスロウで生々しい瞬間が通り過ぎると、胸の鼓動がうるさく鳴った。私は水面に広がる波のような紋を眺めた。しばらくして顔を上げると、彼はもういなくなっていた。
それから私は、晴れの日に湖が見える高台へ向かった。ミハエルは大抵同じ時間にやってきて、いつも蹄鉄を投げていた。私は、彼が立ち去ってからの月日を数えることをやめた。代わりに、蹄鉄が岩場を通る数を数えはじめた。その数はひとつひとつ重なっては、あっけなく崩れていく。その繰り返しだった。
私は彼の投げる姿を見るたび、あの日の言葉を思い出した。彼がくれた、忘れられない宝物。人に言ったら笑われるかもしれないが、心のどこかで、彼がいつか魔法みたいに叶えてくれるものだと思っていた。けれど、現実はそうではなかった。あの言葉を叶えるためには、途方もなく長い道のりが必要で、彼はそのことを誰よりも深く理解していた。だから、強烈な生のエネルギーを使って蹄鉄を投げた。それはまるで命を削るような作業に思えた。
私はきっと、いろんな人が感じたことのない感情を知っている。けれど、それと同じようにぎりぎりのところで負ける悔しさとか、肉の痛みとかは想像もできなかった。彼は私ではないし、私は彼ではない。そんな当たり前のことがひどく痛く感じた。
それでも、彼は私のことを強く願いながら蹄鉄を投げた。そんな彼を見るうちに、澄んだ感情が浮かんできた。これはきっと彼への祈りだ。どうかミハエルが……。
私は想像した。幼い私の姿を見て、彼は自然に願いが浮かんだのだろうか。そして、彼は願いを叶えるために行動へ移したのだろうか。それなら、せめて私も同じ分だけ祈ろう。私達はいつだって対等に過ごしてきたのだから。
私は、蹄鉄が空に放たれるたび祈った。祈りを口にすることはしなかった。あの鮮烈なまばゆさに向かって、そっと寄り添うように、静かに祈った。
いつのまにか、空に放たれた蹄鉄は見惚れるほどきれいな放物線を描くようになった。そのころにはミハエルは目に見えて成長していた。丸味を帯びていた輪郭や骨格はたくましくなったし、額を隠していた前髪はいつからか分け目がついたし、背丈もぐっと伸びた。彼の表情からは明るい素直さは消えて、凛々しさがにじむようになった。男の子ってすぐ大きくなるんだわ。私は昔に感じた気持ちを思い出した。
そんな彼を眺めていると、私を見て無邪気に「かわいいな」と言ってくれるミハエルにはもう会えないような気がした。
それでも、さみしくはない。彼の願いの中に、私が生きているから。例えそれが硝子のかけらほど小さくて、願いというより意地のようなものだとしても、彼と私をなんとか繋ぎ止めていた。
いつのまにか蹄鉄が岩場をくぐる回数は、片手を過ぎ、両手では足りず、指を何度も折り返すほど重なっていた。すると、彼の背中をそっと押すように、透明に晴れわたった日が続いた。蹄鉄は湖の上をまばゆさを放ちながら、岩場へと吸い込まれていった。
そして、その光景はついに百回目を迎えた。夕日に照らされながら、まっすぐ岩場に放たれた蹄鉄は今までで一番美しく放物線を描いた。願いが消化されるような、穏やかな輝きのように見えた。本当にそうなのか、私の目がにじんでいるのかは、わからなかった。
思い返すと、彼が立ち去ってから無慈悲なほどに月日が経っていた。時間は前にだけ進み、誰にも止められない。けれど、それは悪いことばかりではなく、こんなにも素晴らしく、輝きに満ちた瞬間も確実に訪れる。私はきらきらと明るい気持ちでいっぱいになった。
しかし、彼は顔を下げて、うなだれている様子だった。なにをしてるの、ミハエル、あなたはやりとげたのよ! 私は叫びそうになった。
同時に彼の隣にいれば、どこにでも行けるような、清らかで自由な感覚が体にあふれた。
私はその感覚を力に変えて、百回の祈りを運ぶように、ハンドリムをつかんで前へ進んだ。