この気持ちに名前をつけるなら 1

日鳳大学生パロ。自覚ありの日吉と無自覚な鳳の身動きの取れない両片思い。
※鳳が女性と交際していた描写があります。

 あふれんばかりに入っていた氷はもう溶けきっていて、アイスティーのグラスからじんわりと水滴がつたう。ずいぶんと時間がたったのだと気がつく。それなのに、突き刺すような声が耳の奥にまだ残っていた。
 先ほどまで一緒にいた人の顔をぼんやりと思い浮かべる。彼女とは春先に告白されて、付き合いはじめた。はじめのうちは楽しそうに笑ってくれていたけれど、季節がひとつ移ったころ、顔色を変えて俺の前に現れた。彼女の話に耳を傾けると、なにかが欲しいのだと言う。「恋人らしいこと」「本当に好きならもっとなにかを」とずっと輪郭の外側をなぞるように投げかけられる。女の子の笑顔や声は柔らかく、いいものだと思うけれど、まくしたてられるのは苦手だ。付き合っている事実やこうして向き合っていること。それだけでは足りないのだろうか。
 いよいよ「鳳くんは言葉で伝えないとわからないの?」と怒りのこもった口調で問いかけられる。「ごめん、察するのは苦手かもしれない」と目をそらして言うと、また言葉の攻撃が始まる。彼女の言葉には、右も左もなく、本を真逆に読んでいるように聞こえる。なにが欲しいのだろう、と思いを巡らせても、つかめそうもない。なにも言わない俺にあきれたらしく、最後は「もういいわ」と言って、立ち去った。
 まるですごろくをやり直すかのように、結局は同じことになってしまう。いつも考えはするのだ。それでも彼女の……恋人の考えることは全くつかめない。俺は、息をひとつ吐き出して、気持ちを落ち着かせるために、グラスを手にした。グラスは濡れていて、アイスティーの色は薄くなっている。俺の心のむなしさをなでるように、夏のテラス席に生暖かい風が通り抜けた。


 昼と夜の間は、陽射しも街並みもよどんで映る。うだるような暑さでは、人の顔も楽しそうには見えない。その中でも自分が一番かすんだ存在だろう。昼間に比べて風はごうごうと強くなり、空を見上げると雲がゆったりと動いている。家族に顔を見られても話せることでもないから、すぐ家に帰りたい気分ではない。俺は雲の速度に合わせてゆっくりと足を動かした。どうしようもない過去のことは、早く忘れたい。かといって、ひとりでいると気持ちがどんどん沈んでいく。そう思うと、すっと頭に浮かんだ人がいた。そうだ、日が落ちる前に連絡すれば、夜に会ってくれるかもしれない。アプリから彼の名前をすかさず見つける。俺はすがるように連絡を入れた。
 思い返せば、高等部までは会うための約束をほとんどしたことがなかった。学校の廊下で、部活で、音楽室で。会いたいと思えばいつでも顔が見られる距離にいた。家もそう遠くはないので、地元の店でばったり会うなんてこともあった。しかし、大学進学を機に状況は変わった。大学は同じ氷帝に通っているけれど学部は違うし、日吉は一人暮らしをはじめた。そうなると、ばったり会うなんてこともなくなった。彼はわざわざ俺を誘うことはしないが、時折俺は無性に会いたくなって、「今日会えない?」と連絡をする。彼はぶっきらぼうに返事をくれる。無駄のない簡素な言葉。それでも、俺の頼みはたいてい聞いてくれる。ため息をつきながら、小言を言いながら。行動と裏腹の言葉にすら優しさがにじんでいるのだと、俺は知っていた。日常に溶け込んだ、ゆるやかに続く間柄。それをなるべくつなぎ止めたいと思う。あえて名前をつけるなら、幼馴染というものなのだろう。

「日吉!」

 待ち合わせに厳しい彼は、たいてい時間よりも早く約束の場所にいる。今日は俺が急に呼び出したのだから、少しくらい遅れてきてもいいのに。そういうことをしないのも、また彼らしかった。彼は無表情でこちらを見た。

「ごめんな、急に」
「謝るくらいなら、連絡なんかするな」
「あはは、そうだね」

 日吉は俺が謝る癖が好きではないから、口にするたびにきつい口調で指摘する。いつしか「鳳の枕詞だからな」と言われたこともあった。きっと嫌みなんだろうけど、その言い回しは俺にとって面白いものだった。

「今日は、和食の店はどう? 家族と行ったことがあるんだ。豆腐と天ぷらが美味しいよ」

 誘う時は、彼の好きそうな店を選んでいる。静かでこぢんまりとした場所。和食ならよりいいだろう。日吉はふうん、と興味があるのかないのかわからない返事をして、先に歩きはじめた。お店が違う方向だったらどうするのだろうと思いながら、急いで隣についた。駅前の大通りから一本小道に入って、ひたすらまっすぐに歩く。どんな都会でも、ひとつ道を外せば静かな道が広がっているのは不思議だ。しばらく歩くと、右手の入り口にのれんが見えた。日吉に後ろからここだよと言うと、彼はこちらを振り向きもしないで、のれんをくぐった。まるで案内してきたかのように、彼は店員さんに「ふたりで」と言った。障子で区切られた個室へ案内される。席に着くと、日吉はとりあえずこれで、とメニューをてきぱきと頼んだ。いつも俺が悩んだり、もたついたりする間に、彼は事を進める。それくらい、俺たちは対極の気質だった。

「どうしたんだ、そんなしおれた顔して」

 食事と一杯目のビールが運ばれた後、日吉が問いかけてきた。

「ああ、ちょっとね……」

 俺はそんなに沈んだ顔をしていたのだろうか。日吉には俺の顔色などお見通しらしい。俺は具体的に話す気にはなれず、あいまいな言葉ではぐらかした。彼に言わせれば、そういうはっきりしない態度もよくないそうだ。日吉は店の割り箸を端に寄せ、自分の箸を取り出した。彼の昔からの習慣だ。その箸でおつまみを口にする。その間も煮え切らない俺の返事が、ふたりの間に居心地悪く残っていた。日吉はため息をひとつこぼして、その空気を切り裂くように俺を見た。

「また付き合ってた相手に振られたのか?」

 彼はなにかあった時、一言目から確信をついてくる。迷いのない、はぐらかさない、はっきりとした口調。その物言いで何度も喧嘩をしたが、彼の思いがぶれずに伝わってくる言葉は好きだった。
 日吉とは誰が好きとか、付き合いはじめたとか、そういった恋愛話をしたことはない。しかし、日吉はまるで過去のことを知っているかのような口調で切り出した。驚いていて返事ができない俺に、日吉は構わず言葉を続けた。

「鳳はそういった類の話は好まないだろうから、今まで触れなかったが……わかりやすいんだよ。中高の頃なんか誰かと付き合いはじめると、そそくさと早く帰っただろ。段々頻度が減ってきて、鳳の顔つきがへこたれてくる。そうなると終わりが近いってところだ」

 俺は感情が顔に出やすいとよく言われる。確かにうそをつくのは苦手だ。たいていの場面は笑顔を作って、ごまかせば取りつくえる。けれど、日吉には全く通用しない。

「別に鳳が誰とどうなっても興味はないが、せっかくの飯がまずくなる」

 日吉は押しつけるように話し終えると、豆腐をぱくりと一口食べた。普段口数の少ない彼は、人を責める時には饒舌になる。その口調から、表情では語られない感情の波が、ありありと押し寄せる。きっと俺がどんな一日を過ごして、どうしようもない気持ちで日吉に連絡したことも全部わかってるんだろう。恋人に去られて落ち込むのも、日吉にすがるのも、自分の未熟さのせいなんだと、たまらなくなって、泣きそうになる。その気持ちをぐっと堪えると、かわりに今まで抱いていたわだかまりが心の底から込み上げてきた。

「本当に、日吉の言うとおり。俺、いつもだめでさ」

 俺がぽつりとつぶやくと、日吉は箸をゆっくり置いて、俺を見た。

「姉さんに、ずっと付き合ってる恋人がいるんだ。俺も会ったことあるけど、優しくてすてきな人。今日はなにをした、どこへ行ったって楽しそうに食卓で話すんだ。それを聞くと、母さんも父さんも笑ってて……いつもいいなって思って、だから……」
「だから、好きでもないやつと付き合うのか」

 日吉は俺が言葉につまるのを見逃さず、鋭く言った。

「鳳は断るのが下手だから、どうせ告白してきた押しの強い相手と付き合うんだろ。そんなんでうまくいくわけがない」
「……そうだね、本当に向いてないのかもしれない」

 あいまいな肯定の返事をすると、日吉は今日一番大きなため息をついた。あきれているのが態度でありありとわかる。
 ただ、日吉の言っていることは事実だった。俺に声をかける女の子たちは「鳳くんは優しいから好き」と言う。嬉しいし、ありがたいことだと思う。ただそれは、自分なりにいいことをしているだけで、それ以上のことはできない。いつの間にか自分が思う優しさと、彼女たちの望みがすれ違う。そうなると渇望のまなざしに苦しくなって、なにを返せばいいか分からなくなる。彼女たちの好きという投げかけに俺は答えられず、終わってしまうのだ。どうすればいいのかと、いつも路頭に迷う。
 幼いころ、よく姉さんと本や映画を見ていたことを思い出す。俺はまだ自分が好きなものがよくわからなかったから、内容はたいてい姉さんが選んでいた。姉さんの好きな物語は、設定やストーリーは違っても結末はどれもなんとなく同じものだった。いつしか、姉さんは俺のほうを見て、「将来すてきな人にめぐり合えるといいね」と言った。姉さんは幸せそうな表情をしていて、父さんも母さんも笑っていて、やさしい時間だなあ、と思いながら、俺はうなずいた。今思えば、あの問いかけにも、ほほえみに深い意味はなかったと思う。ただ幸せに過ごしたいね、という小さな願いのようなもの。その願いを叶えるために、姉さんも俺も、誰かと出会って、恋をするんだろうなとぼんやり思った。そんな遠い日の記憶。けれど、自分の行き着く先はそうでないのかもしれない。

「好きになった人に好きって言えばいいだろ」

 日吉は今までの雰囲気を打ち消すように、柔らかい口調で言った。当たり前の、単純な答え。それを、日吉が言うとすっと心にしみこむ。小さな事でぐるぐると悩む俺を、そっと引き上げてくれるのはいつも日吉だった。俺は「そうだね」と声をひそめて言った。その言葉だけで心のわだかまりがずっとほどけて、穏やかな気持ちになる。

 ──好きという感情はどんなものなんだろう。

 昼間に会っていた彼女も確かに好きな人だった。でも、いつも温かい家族も、たわいのない話をできる友達や信頼している先輩も、仲間と頂点を目指したテニスも、きれいな音を奏でるピアノも。みんな大切で、かけがえなくて、好き。自分でも、そういう好きと、恋愛感情の好きが違うことくらいはわかっている。ただ、頭で理解していても、どうしても感触としてつかめない。そんなこと誰も教えてはくれない。
 日吉が言う好きってどんな感情なの? 子供じみた質問が頭の中を通り過ぎる。彼に言ったら、そんなことは自分で考えろ、なんて言われそうだ。俺は疑問を飲み込んで、「聞いてくれてありがとう」と感謝を伝えると、日吉は静かにこくりとうなずいた。

「日吉は、付き合ってる人いるの?」
「……いねえよ」

 俺は気になって問いかけた。日吉は目を伏せて、声を細くして言った。彼に恋愛話を聞いたのは、はじめてだった。今まではどうなんだろうか。彼は好きな人にはっきりと好きと伝えるのだろうか。でも、その話はもうよかった。今は目の前に日吉がいて、向かい合っている。それだけで充分だ。
 それからは、お互いたわいのない話をはじめた。最近のこと、大学のこと、家族のこと。俺が「最近宍戸さんがね、」と言うと、「鳳はまだ宍戸さん離れしてないのか」とあきれるように笑った。会わなかった間に起こったことをなるべく全部話したかった。
 日吉とお酒を飲んだのは何度かあるが、彼がこんなに早いペースで飲むのははじめてかもしれない。生ビールから始まって、ハイボール、梅酒、それから日本酒がうまいと言いながらグラスが空くとすぐに頼んだ。席を共にした時はそこまで飲んでいなかったが、案外お酒が好きな性分なんだろうか。そう思いながら話していると、いつしか日吉の返事がなくなったのに気がついた。

「日吉、起きてる?」

 店内に響くくらい、大きめの声で問いかける。はじめは顔を近づけて、二回目は肩を叩きながら。けれど、彼は全く返事をしない。いつも静かで、反応も薄いからすぐにはわからなかった。疲れていたのかもしれない。また肩を叩いても、眠りは深いようで微動だにしない。もともと今日は自分がお金を出すつもりだったし、仕方ないかと思いながら、俺は帰り支度をはじめた。
 しきりに心配する店員さんを背中に「ちょっと疲れてたみたいなので、大丈夫です」と笑ってごまかしながら、店を後にする。酔いつぶれた彼を肩に抱いて、ゆっくり歩く。日吉は半分夢の中で、足取りはおぼつかない。日吉のこんな姿は滅多に見られない。
 ふと目線を上げると、東京の夜とは思えないくらい透き通った空が見えた。星なんかはほとんど見えないけれど、ぱらぱらと光る一番星はいつも以上に輝いている。昼間と比べるとやけに涼しい風がほほをさらりとかすめる。体の片側に触れる日吉の肌に熱がこもっているのが余計にわかる。大丈夫なんだろうかと肩をさすると、さらにぐったりと俺の体に寄りかかる。彼の温もりがじわじわ伝わってくる。
 その温かさを感じながら、澄んだ空を仰ぐと風の音が耳を通り過ぎる。すると、懐かしい気持ちが心の奥をかすめた。この懐かしさにまぎれた、俺が日吉に抱いてる感情が一気に舞い上がる。彼の隣にいると感じる、こそばゆい気持ちはなんだろうと昔から思っていた。
 俺の中で舞い上がる気持ちに名前をつけるとするなら、なんだろうか。以前は思いつきもしなかったが、今ならたどり着ける気がする。そして、名前をつけてしまったら、俺はどうすればいいんだろうか。


 日吉は長い距離を歩ける様子ではなく、結局途中からタクシーに乗って、彼の家まで移動した。日吉は、静かな住宅街のアパートで、一人暮らしをしている。

「日吉、もういい加減起きろよ」

 アパートの前でタクシーから降りても、彼はうなだれていて起きてくれる様子ではない。こうしても目が覚めないとは、それだけ疲れていたのだろう。もしかして、無理してでも俺に会いたくて、来てくれたのだろうか。そんなありえないことをこっそり考える。
 俺のほうが大きいとはいえ、ひとりの男性を肩に抱えるのは楽ではない。一歩一歩、体にぐっと力を入れて歩く。夏の空の下、汗をかきながら酔った友達を家まで送る。日吉となら、子どもの頃、夜中にこっそり家から抜け出して遊びに行くような楽しさがある。明日起きたら、ちょっと小言を言ってみようか。送ったお礼をせがんで、今度は日吉においしいご飯をごちそうしてもらおう。俺はそんなことを考えながら、階段を上った。
 確かこの部屋だったと、以前来た昼下がりの景色を思い出す。なんとかドアの前までたどり着いた。彼は几帳面なので、必ず鍵をかけているだろう。

「かばんの中、見るよ?」

 念のため声をかけると、こくりとうなずいた。意識はあるようで、ほっとした。かばんに手を入れると、すぐに音がして、鍵をつかむことができた。
 鍵をひねってドアノブを回す。勢いよくドアが開いた。なんとか力を振り絞って、ゆっくりと歩く。なるべく起こさないように、薄暗いオレンジのあかりをそっとつける。机とベッドが置かれた簡素な部屋。おじゃまします、と言う余裕もなく、ようやくベッドまで行き着いた。ベッドへ体をおろす。すると、彼はぱたりと横たわった。

「日吉、コンタクト取ったほうがいいんじゃない?」

 俺は心配して声をかけたが、日吉はすうすうと寝息を立てて、深く眠っていた。彼の寝顔を見るのは久しぶりだった。俺の家へ泊まりに来た時に、合宿で同じ部屋になった時に、ふと夜中に目覚めた際はこっそり見ていた。細い目を覆うまぶたはふっくらとしていて、口はきゅっと閉じられている。まっすぐ伸びた栗色の髪は、重力に従うように下を向いていた。いつも凛々しい表情をしている彼から力が抜けて、無防備になる。そう、日吉の寝顔はかわいいんだ。まるで自分だけが知っているような気持ちになって、自然とほほがゆるむ。手を伸ばして、彼のほほを触る。いつもはひんやりしていそうなほほは、酔いのせいかほてっていた。なんだか心地がよくて、何度もなでた。
 そうするうちに、日吉はゆっくりと目を開いた。起こしてしまったのかもしれない。申し訳なかったなと思いながら、そっとほほから手を引く。彼はまばたきをしながら、ゆっくりと体を起こした。気持ち悪いのかもしれないと思って背中をさする。俺のほうを向いても、まだ夢見心地のようで言葉はなかった。体調はよくないだろうから、コンタクトを外して、水を一杯飲ませて、パジャマに着替えて、ふたりで寝ればいい。
 そう思っていると、突然両腕をぐっとつかまれる感覚がした。瞬間の出来事だった。考える隙もなく、景色ががらりと変わる。目に入ったのは、うっすらと蛍光灯のオレンジに染まった天井、彼の焦がれるような瞳だった。
 日吉を見つめていると、その瞳がぐっとせまってきた。同時に動物が獲物を捕らえるような、そんな張りつめた空気がした。そして、唇に柔らかな感触がした。この瞬間に、俺は理解した。日吉に押し倒されて、キスをされている、と。彼の口が俺の唇を包み込み、何度も離しては、また触れられる。最初は形を確かめるような、ゆるやかな重なり。それはだんだんと深くなり、じんわりと互いの間に熱が生まれる。一度日吉の顔が遠くに離れると、ねっとりとした糸を引いた。

「んぁ、」

 帯びた熱だけが唇に置いていかれて、切なさが残る。それにもどかしさを感じていると、また唇をふさがれる。次は離さずに角度を変えて、口づけをされた。唇をすべらせて、何度も執拗に繰り返される。日吉の唇に身を任せていると、息継ぎもできなくなる。いよいよ息が苦しくなるが、その中には満ち足りた甘さが含まれていた。

「ふっ……ぁ」

 唇が離れる瞬間、いやらしい吐息がもれる。おそらく、自分の口から。恥ずかしくてたまらなくなる。俺は今どんな表情をしているのだろうか。できれば、見ないでほしかった。日吉は俺を見据えて、口を開いた。

「俺は……」

 日吉がつぶやくと、俺を包み込むような彼の瞳とはっきりと目が合う。その瞳は凝らしても底が知れない、夜の色をしていた。今まで見たことがない。その瞳に俺が色濃く映っている。ずっと見つめていると、こちらが捕らえられてしまいそうになる。

「俺は、おまえを……」

 日吉は最後まで言わないで、俺のあごに右手を乗せた。強く下へ引き、俺の口を強引に開くと、間髪入れずに唇を近づけた。先ほどよりも深く入れ込むキスだった。彼の舌がぐっと入ってきて、自分の口内をゆっくりとなぞる。こそばゆさがあったが、それと同時に暴かれている感じがした。柔らかな感触で口内をなぞられたと思えば、奪うようにすべてを吸い上げられる。自分と彼の舌が重なるたびにくちゅり、とかき回すような音が響いた。人と人が交じると、こんな音がするのか。普段はひとりで過ごす真夜中に、重なり合ういびつな熱が広がる。
 どのくらい時間がたったのだろうか。一瞬の先くらいだったかもしれないし、何分も口づけされていたのかもしれない。頭は溶けたようにふわふわとして、あまり働かない。唇をそっと離されると、俺の口からは唾液がこぼれた。それは日吉のものなのか、俺のものかわからない。きっと混ざり合ったのだと思う。
 日吉がまた視界から見えなくなると、首筋に温もりを感じた。鎖骨のあたりに口づけされている。ひとつひとつ慈しむように。唇だけでなく、体も甘味に侵される。体から込み上げる高揚に、直感したのは恐怖だった。言葉を交わさないまま体を重ねても、ふたりとも傷ついてしまう。そう思った俺は、腕に力をいれて、日吉の肩をゆっくりと押した。日吉ははっと顔を上げて、俺を見た。日吉の表情からは驚き、焦燥、切望、そんな感情が色濃くにじんでいた。夜が溶け込んでいる彼の瞳はさらに大きく揺らめいた。
 日吉はぎゅっと目を細め、切なそうな顔をして俺のほほへ手を伸ばした。触れる手は泣きたくなるくらい優しかった。

「悪かった……」

 彼は一言、そっと告げると、意識を失うようにぱたりとベッドへ沈み込んだ。
 嵐のような出来事が過ぎ去った。部屋は真夜中の静けさを取り戻す。しかし、俺の心臓はばくばくと、一向に鳴り止まない。落ち着こうと思い、深呼吸をする。アルコールの酸味と夜の熱気が混ざった香りがした。そして、そっと自分の唇に手を当ててみる。水が何度も交わった、ふやけた感触がした。重なった熱の余韻がじんわりと残っている。今まで彼の隣で感じてきた懐かしさや温かさとは全く違う、焦がれるような激しさがうずまく。人が人を求めるとは、こんなにも熱く、胸が高まるものなのか。
 ただ、日吉の真意がどこにあるのかはわからなかった。言葉を交わさずに、唇だけ重ねてしまったもどかしさと、高揚感が胸に刻まれる。今のことを彼は覚えているだろうか。夜を超えた瞳に、俺はどう映るのか。
 鳴りやまない鼓動はそのままに、俺の瞳にもまどろみが訪れる。日吉の隣で眠るわけにもいかないので、床に横たわった。フローリングはひんやりとしていて、先ほどの熱を和らげてくれる。この事は忘れたほうがいいのだろうか、それとも……。そう考えるうちに、日吉に触れられた甘い余韻に包まれ、すとんと眠りに落ちた。