この気持ちに名前をつけるなら 3

日鳳大学生パロ3話目。こちらで完結です。

 空気が澄みきった夜には、あの一晩の出来事を思い出す。時間を止めたかのように静かな部屋で、俺と日吉の体が重なる。一気に熱を帯びる。包むように唇をふさがれ、息ができなくなる。唇だけでなく、体までも甘くなっていく。いけない、と思いながら俺はぎゅっと目を閉じる。思い出すだけで、熱くてたまらなくなる。あの出来事が終わった後の時のように、心臓がどくどくと波打つ。止まらない。そんな夜は、どうしたって眠れない。

 あの夜が明けた朝、俺のベッドから起き上がった日吉は、もういつも通りだった。酔いつぶれたことばかり謝るので、彼に問いかけてみた。記憶は途中からなく、ベッドでの出来事も頭から抜けているようだった。寝起きの俺の体には触れられた熱が残っていたが、あの話題を切り出すことはできなかった。日吉はきっと疲れていたんだ。昨日は俺が話を聞いてもらったし、今日は休んでもらわなきゃ。そう思いながら、急いで彼の部屋を後にした。
 その後俺がメッセージを送っても、あの出来事の話題を振られることはなかった。記憶からすっかり抜けているのは間違いないようだ。もし覚えてたとしたら、なにかしらの言葉を切り出すだろうから。それなら、俺も忘れてしまえばいい。また会った時には、普段通り幼馴染として、楽しく話がしたい。そう思っていた。
 けれど、時間が俺の味方になってくれることはなかった。しんと静まり返った夜にいつも頭を通り過ぎる。焦がれた夜の色をした日吉の瞳。俺の体に触れる日吉の手と、唇。
 嵐のような出来事だった。突然訪れた密な交わり。そのことが彼の体にはもう残っていない。それなら、日吉にとって、俺の体にあんな風に触れてしまうなんて、お酒が原因の事故のような出来事だろう。今更思い出したとしても、きっと彼はショックを受けてしまう。

 ──あの日は酔っていて、勘違いをしてしまった。すまないが、忘れてくれ。なかったことにしてくれ。

 俺があの日のことを切り出したら、そう言われるかもしれない。そうしたら、俺は感じたことのない高揚感を、忘れられるのだろうか。思い出すだけで、全身が震えるのを感じる。まず襲ってくるのは、未知への恐怖。けれどそれだけではなく、先には別の感情がある。酔い潰れる日吉を肩に背負いながら、澄み切った夜空の下で感じた懐かしいもの。まるでスカーフが風に乗ってぶわりと飛んでいくように、気持ちが舞い上がる。こそばゆく、甘い気持ち。この気持ちを伝えられないのかな。そう思うと、自然と涙がほほを伝った。俺は唇をきゅっと噛み、体を縮こまらせた。俺はこれからどうすればいいのか。俺が悩んでいる時に嫌みを言いながらも仕方ないなと手を差し伸べてくれた日吉。でも、動悸に合わせて脈打つ指を握ってくれることもない。悲しくてたまらなくなる。こんなこと、誰にも言えない。ひとりで悩む夜はどうしようもなくつらい。
 彼がいつかあの出来事を思い出して、なかったことにしてくれと言われたら。思い出さなかったとしても、またお酒を飲んで無言で求められたら。どちらにせよ怖くてたまらなかった。どの道をたどるとしても日吉と今までの関係には戻れない。日吉と話がしたい。けど、それ以上に会うのが怖い。
 俺は涙でぼやける視界の中、アプリから彼の名前を探し、ボタンを押した。





 それからは心にできた空洞を埋めるように、予定をつめ込んだ。将来は留学も行きたいから、今まで以上に音楽の練習と、語学の勉強に力を入れた。ずっと一緒に住んでいた姉さんが春先から付き合っている人と同棲するために実家を出るので、引っ越しの手伝いもした。そんなに手伝わなくていいのにとあきれられたが、俺は首を横に振った。
 もう真夜中の出来事を忘れることができないのなら、思い出さないくらい目まぐるしく過ごせばいい。昼間は予定をつめて、夜はベッドに倒れ込んで寝る生活を送った。
 そんな日々を続けてるうちに、あっという間に新しい年度を迎えた。新学期のふわついた空気が落ちついた頃、講義中にアナウンスがあった。音楽部学内コンクールの募集だった。大学の小規模コンクールとはいえ、氷帝の音楽部は国内でも有名で業界の注目度は低くない。これから国内のコンクールや留学入試も受けたいから、今までの成果を試すのに、これとない機会だ。姉さんの引っ越しも終わったところだったので、先の予定を見つけられたのもちょうどいい。俺は迷わず応募した。
 予選の課題はモーツァルトもしくはベートーヴェンのピアノ・ソナタから全楽章1曲と、リストに記載された62曲の練習曲の中から1曲。
 ピアノ・ソナタはモーツァルトの第18番を選んだ。モーツァルトのピアノ・ソナタの中では難解な部類で、課題曲に選ばれることもあるから、昨年から練習していた。この曲を弾くと、バッハの平均律を思いだす。バロック風が色濃く、愛らしさと穏やかさが歌うように交錯していく。難しいけど、ピアノを弾くのはやっぱり楽しいと思わせてくれる曲だ。
 練習曲は大好きなショパンにした。作品25-1、エオリアン・ハープ。音の粒が頭上を駆け抜けるような、軽やかなメロディ。手の動きが激しくて、集中力がいる曲だけれど、その没入感に救われた。この曲を弾いている時は、心の中にさらさらと爽やかな風が吹く。それが心地よかった。俺はいつだってショパンの音楽に助けられている。
 先を見据えて、本選の課題も確認しておくことにした。本戦では、曲目の中から1曲選択し、オーケストラと協奏曲を演奏する。ベートーヴェン、ショパン、リスト、ブラームス。曲目には名だたる作曲家の協奏曲がずらりと並んでいる。師事している先生と相談して、ショパンの1番もいいね、とかそんなことを軽く話した。
 家に帰って休憩がてら曲目を眺めていると、ふととある曲が目に止まった。ラフマニノフのピアノ協奏曲第3番ニ短調。棚にあるCDを取り出して、オーディオに入れる。鳥肌が立った。聴いたことは何度もあったけれど、壮大なものが静かに寄せてくるような出だしにぐっと引きこまれた。導かれるように棚からスコアを取り出す。これを弾いてみたい、と思った。
 先生は予想外だったのか、はじめは選曲にうなずいてくれなかったが、最後は俺の意思を尊重してくれた。
 ラフマニノフのピアノコンチェルトを弾きこなすなんて、並大抵の練習ではできない。俺は今まで以上にピアノの練習に打ち込んだ。楽譜に食らいついては何度も確かめて、鍵盤にすがりつくように手を動かした。
 この曲を弾くと、寄せては返す冬の海を眺めている感じがする。静かだと思っていた海に激しい波がこちらへやってくる。なんとか弾けたと思い波が去るのを見ていると、また波が押し寄せる。それを繰り返すうちに、突然襲ってくる悲しみやふと思い出してしまう熱も流れていく気がした。この波が、いろんな事を忘れさせてくれる。この曲を信じよう、きっと大丈夫だ。そう思いながら、ひたすらピアノに向き合った。


 梅雨がはじまった頃の日曜日、新生活が落ち着いたからと言って、姉さんが実家に立ち寄った。ひさびさに会ったものだから、俺はとても嬉しくて、紅茶と焼き菓子を出して、いろんな話をした。その中で今度コンクールに出ることを伝えると、話の流れで演奏を聴いてもらえることになった。さわりだけ弾いて、「どうだった?」と軽い気持ちで問いかけた。すると、姉さんは一呼吸置いて「ちょっと怖かった……」と言った。顔をのぞくと、戸惑いのある暗い表情をしていた。

「ああ、ごめんね、そうじゃないの。もちろんうまかったよ。ミスマッチもなかったし、楽譜どおり。ラフマニノフは明るい曲じゃないし。でも、なんだかふくらみがなくて、余裕がない音だった。モーツァルトもショパンもそれにひっぱられちゃってる感じ……」
「そっか。まだ練習が足りないな。もっと指になじませないと」

 俺は指先を見ながら言った。すると、姉さんは首を横に振った。
「多分ね、その逆。頑張りすぎて、長太郎のよさがなくなってる感じ。だから、手をゆるめててもいいかも。そうだ、日吉くんに遊びがてら聴いてもらったらいいじゃない」
 姉さんはいいことを思いついたように、明るく言った。その人の名前をどうにかして避けて過ごしてきたのに、家で聞くとは思わなかった。予想外な提案に、心臓が大きく波打った。

「日吉……?」
「昔、何度か演奏会に来てくれたことあったよね。そのときの長太郎はすごく嬉しそうで、それが音にも出てたよ。部活も一緒にやってたし、ピアノのことはわからないだろうけど、長太郎が煮詰まってる部分とか教えてくれるかも」

 姉さんは俺と日吉が昔と同じ関係だと思っているようだった。きっと、姉さんのまぶたの裏には、幼い俺たちが映っているのだろう。
 彼といると楽しいから、そんな純粋な気持ちだけで一緒に過ごしていた幼い頃。思い返せば透明で夢のような日々だったと思う。そこから同じ方向を目指す仲間にもなり、長い時間を共にした。そして、歩く道が違っても、関係は形を変えてゆるやかに続くのかと思っていた。でも、それはもう過去になってしまっている。
 俺たちの関係を疑いもしていない姉さんのまっすぐさに、俺は泣きそうになった。

「……日吉、最近勉強やインターンで忙しいみたいでさ」
「そうなの? そういう時期もあるよね。私もまた遊びにくるから」

 姉さんは、リラックス、リラックス! と言いながら、俺の肩をつかんで揺すった。
 姉さんだけでなく、他の人からも相変わらずの関係だと思われてるのだろうか。もう会わなくなってから一年近くなるし、連絡先さえ消してしまったのに。
 俺が彼と会わないのは、個人的な問題だと思っていたけれど、そうではないのかもしれない。俺と彼はふたりだけで過ごしてきたわけではなく、たくさんの人が円を描くように関わっている。ただ、そうであったとしても、誰にも相談できない。今更俺から連絡をする勇気もない。そう思うと、心が悲しさで包まれる。また苦しい気持ちがじわじわとやってくる。忘れよう、ピアノを弾きたい……。
 玄関から姉さんの背中を見届けたあと、俺はまた椅子に座り、ピアノに向き合った。


 練習の甲斐もあって、予選は問題なく通過できた。あとは、ラフマニノフの3番を弾ききるだけだ。俺はひたすら最終調整に打ち込んだ。
 オケとの合わせ練習は特に貴重な時間だった。俺のピアノと楽器の音が重なったとき、満ち足りた心強さを感じた。俺とピアノだけではなく、頼もしいオーケストラも、力強く導いてくれる指揮者の先生もいる。先生からはこのままいけば、いい線も狙えると言われた。だから、大丈夫。俺は何度かわからないくらい心の中で唱えた。


 押し流されるように日々は過ぎ、ついに当日を迎えた。
 会場につくと、張り詰めた空気に息をのむ。今までもコンクールは何度か出たことがあったけれど、この独特の空気をプレッシャーに感じたことはなかった。中等部のころはテニスのほうが大事だったし、結果よりもまずは弾ききることを優先していた。ただ、これからのことを考えると、今回は入賞しておきたい。そう思うと、手にぎゅっと力が入る。
 なるべく体が固くならないように準備を進める。ピアノを弾く前は、なにより手を温めなくてはいけない。そう思いながら、カバンの中を探る。けれど、取り出そうとしたものが見当たらない。あれ、カイロを忘れてしまった。持ち物は何度も確認したのに……。仕方がないので、いつものようにペンダントを取り出して、そっと握りしめた。昔から変わらず寄り添ってくれるペンダントは、俺の緊張を溶かすかのように、ひんやりと冷たかった。


 ついに順番がやってきた。
 俺の心は思いがけないほど静まり返っていた。まるで、冬の海のほとりに立って、上から水面を眺めているような気持ちがする。おだやかな水の波の中に俺の顔が鏡のように映っている。不思議な感覚がして、ずっとのぞき込んでしまう。そんな風に、冷静な自分とそれを観察している自分がいる。
 俺と曲目のアナウンスが会場に響く。すうと息を吸い込み、俺は強い光が差し込む舞台へと進んだ。光が目に飛び込んでくると同時に、空気を切り裂くような拍手に迎えられる。俺は一礼し、椅子に腰を下ろした。そして、鍵盤に手を構えた。

 ──指先が硬い。ペンダントの冷たさが指先に残っているみたいだ。

 瞬間的にそう感じた。一度頭に浮かんでしまったら、頭から離れない。この指先は動くのか、難所を弾ききれるのか、そんな不安がよぎる。自分の指先と鍵盤を見つめると、その視界がぐらりと揺らぎ、俺の心臓は飛び跳ねた。椅子に座ってから、ほんの数秒のことだった。
 かすかなブレスが聞こえてくる。顔を上げると、指揮者の人が俺に柔らかい笑顔を向けている。経験豊富な落ち着いた人だから、俺が動揺しているのを瞬時に理解したのだろう。俺は意識を戻して、うなずいた。タクトが天井に向くと、クラリネットとファゴットのユニゾンが静かに協奏曲のはじまりを告げる。その旋律の流れにのって、冒頭を弾きはじめる。静かに語りかけるようなメロディ。しかし、俺の指先から出たのは突き刺すような鋭い音だった。鳴り止まない鼓動がそうさせるんだ。俺は落ち着こうとするけれど、先に進むたびに音はさらに鋭くなり、テンポは早くなっていく。音合わせのときに比べて、俺のテンポがずれている。俺の指づかいとオーケストラが合っていない。ああ、だめだ、取り戻さないと。俺は鼓動を落ち着かせることができないまま、pui mossoに入る。
 その瞬間、水面に浮かぶ自分の顔が再び目の前に浮かんだ。そして、まるでガラスが割れるように、俺の顔が砕け散る。その亀裂は地面まで広がり、俺もピアノも足場を失う。頭と足が逆になり、暗い海へと落下して、波に飲み込まれる。手を伸ばしても、水を切り、泡が立つだけで、鍵盤すらつかめない。そんなイメージが俺を支配した。会場には、重く冷たい、急落下するような音が響き渡った。
 俺の乱れを瞬時に感じたのか、指揮が先頭となって、オーケストラが何度も俺を呼ぶ音が聞こえた。優しくて、強いもの。それでも、俺は暗く深いところへ落ちてしまっていて、お互いの音を調和させることができない。
 隣にはオーケストラがいるのに、会場には聴いている人がいるのに、周りにはたくさんの人がいるのに、今までで一番ひとりで弾いていると感じた。練習しているときにもこんなことは思ったことがない。ひとりで弾くからひとりになるのではなく、誰ともつながれないからひとりになるんだ。そう思った時に姉さんの言葉を思い出した。──長太郎のよさがなくなってる感じ……。そういえば、俺ってどんなふうにピアノを弾いてたっけ。いろんなことを忘れようとしたら、そんな芯の部分までも手放してしまったのか。俺は大切なものを海底の中で探すように、ピアノを弾き続けた。
 終わったあとは放心状態だった。俺は客席のまばらな拍手に向かって一礼した。顔を上げると、師事している先生が静かに片目から涙を流しているのが見えた。その姿を見て、やはり失敗だったのだと自覚する。舞台から立ち去りそでにつくと、俺は自分の手を見た。指先は凍えるように真っ白で、がたがたと震えていた。
 いつもなら他の人の演奏を聞くが、今回はそんな気分になれなかった。もう結果はわかっているから、もうどうでもよくなった。先生は「今回はいい経験ができた。また練習しましょう」と優しく言ってくれた。ただ、その目はまだ赤く、見るのがつらかった。なんとか表彰式を終えて、出場者の中では一番に会場を出た。もう着替えたし、早く大学を出よう。このまま家に帰り、家族に顔を合わせれば、心配したり励ましたりしてくれる。ただ、今はそっとしてほしかった。けれど、ひとりでいると感情が堂々巡りをしてしまう。こういう時は、いつもどうしていたんだっけ……。俺は思い出すように空を見上げた。灰色に西日がうっすらと差し込む、どんよりとした空だった。
 そんな空をしばらく眺めていた。すると、明かりが差し込むように、気品のある足音が聞こえた。

「ラフマニノフを選ぶとは、おまえらしくないじゃねーの」

 知的で毅然とした、聞きなじみのある声だった。俺はその声のほうへ振り向いた。

「跡部さん……」

 俺と目が合うと、跡部さんは腕時計をちらりと確認し、再び俺を見た。今は生活拠点を海外に置き、忙しくしているはずだ。分刻みのスケジュールで過ごしている人がどうしてここにいるのだろうと、俺は驚いた。

「今は五日だけの短期帰国中だ。今日は氷帝に用があって、午後に空きができてぶらついてたら、学内コンクールなんて看板が目に入ってな。暇つぶし程度に聞くかと入ったら、ラフマニノフを弾く鳳に会えたってわけだ」

 跡部さんにさらりと状況を説明した。表情を一目見れば、考えていることはすべてお見通しってことみたいだ。人を見抜く力もやっぱりすごい人だと思った。

「おまえの演奏、悪くなかったぜ。俺が最後に聞いたのは高等部のときだが、技術は格段によくなってる。腕を磨いたじゃねーの」
「ありがとう、ございます」
「だが、選曲が鳳らしくなかったな」
「今までとは違うテイストの曲をやってみたくて」
「コンクールで勝負するなら、もっと自分のものにできる曲にしろ。ラフマニノフのピアノコンチェルトが弾けないって言ってんじゃねぇ。けど今はまだ解釈もメンタルも追いついてないだろ。あんなおぼれた演奏じゃ、コンクールは勝ち上がれないな」

 跡部さんは言った。非常に的確な意見だった。俺は鍵盤に手が触れた瞬間、不安がよぎり、自分自身を信じられなくなった。その途端に、あの曲がかもし出す哀愁の波に飲み込まれてしまって、自分の演奏をすることができなかった。跡部さんの言葉に、言い返せることはなにもない。

「まあ、コンクールの話はこのくらいだ。ピアノを続けるならいくらでも次はあるからな。それに鳳と話したいことがもうひとつある。こっちのほうが重要だ」

 跡部さんはすっぱりと話題を変えた。俺も気持ちを切り替えたかったし、跡部さんも忙しいだろう。俺は「はい」と返事をして聞く姿勢を取った。

「今回の帰国は短期だから、自由時間が一日数時間しかなくてな。だから、忍足と日吉にしか連絡してねえ。他のやつらに連絡すると盛大な催し物が開かれちまう。ありがたいが、今回は時間がなくてな。忍足は一昨日ホテルのバーで会って、日吉はフレンチのフルコースに連れてってやった」

 跡部さんは軽快に話しはじめた。その中で、どうにかして避けている人の名前が聞こえてきた。姉さんといい、跡部さんといい、みんなどうして俺に彼の話題を出すのだろう。もう彼とは昔のような関係ではないのに。

「忍足にテニス部のメンバーの近況を聞いた。鳳はピアノや実家が忙しいから声をかけても集まりに来ないとさみしそうに言っていたな。この日に向けて忙しくしてたってわけか」
「そう、ですね」
「まあ、それなら仕方ねぇな。昨日は日吉に会った。相変わらず嫌そうな顔してやがったな。それで、おまえの近況を聞いたぜ」
「日吉に、ですか」
「そうだ。そしたら、知りません、会ってないです、なんて冷たく言いやがる」

 跡部さんは深刻そうな口調で、空を見上げながら言った。俺は黙って話を聞いた。

「もし喧嘩していたとしてももう口を出す立場ではないが……日吉の言い方から直感的におかしいと思ったぜ。おまえらは長い間お互いに補い合ってきたからな。今すぐ連絡を取れって言ったら嫌だって頑なになりやがる。ずっとこのまま会わないつもりかと聞いたら、目を逸らしてそれでもいいです、なんて言ってな。あんまりに嫌がるから、それ以上は聞いてねぇ」

 日吉はやっぱり俺にもう会うつもりはないんだ。そうしたら、もう一生会わないままなのかもしれない。それはあまりにも重い現実で、心がひどく苦しくなる。でも、俺にはもうどうすることもできない。

「わかりやすいにもほどがあるぜ。それで今日は鳳に期せずして会えたからな。かわいい後輩を放っておく趣味はねぇよ。鳳、今日の夜は暇か?」

 跡部さんは笑いながら言った。俺は勢いに押されて返事をした。
「え、あ、はい……もう入賞もしなかったのでなにもないですし、このまま大学を出ます」
「そうしたら……」

 跡部さんはプライベート用と思われるスマホを取り出して、アプリを開き手早く文字を入力する。すっとスワイプ音がなる。そのまま俺に画面を見せる。日吉宛のメッセージだった。

 ──氷帝学園大学部経済学部棟入口横のベンチスペースに来い。18時集合。

「俺がしてやれるのはここまでだ。行くかどうかはおまえが決めな。俺は、18時から樺地と東京最後のディナーを楽しむから、そちらに行くぜ」
「跡部さん……」
「おまえらに口出しするつもりはなかったがな。健闘を祈ってる」

 跡部さんは手を振りながら背中を向けた。その先にはブラックのスーツに身を包んだ樺地が立っていて、握りしめた拳をぐっとこちらに見せた。俺は今の状況をうまく飲み込めず固まっていると、そのうちふたりの背中は見えなくなった。
 俺はそのまましばらく立ち尽くしていたが、俺の心はもう決まっていた。日吉に会おう。やっぱり話をしたい。会ったところでどうなるかはわからないけれど、今のままではすべてを失ったままだ。俺は経済学部棟に向かった。
 俺はベンチに座って日吉を待った。もう陽は落ちていたが、いくらでも待つつもりだ。ただ、跡部さんが連絡してくれたとは言え、日吉も予定があったら来れない。そうしたら跡部さんから連絡がくるのだろうか。俺はスマホを見た。誰からも連絡は入っておらず、約束の時間を10分ほど過ぎたころだった。すると、急に激しい息づかいが聞こえてきた。

「遅れてすみませ……なっ!」
「日吉……」
「なぜ鳳がここに……!」

 彼は膝に手を置いて息をしながら謝り、顔を上げた。俺と目が合うと、この世の終わりのような表情をして、声を荒らげた。俺は日吉の表情を見ると、妙に冷静になった。ようやく会えたという安心感と、俺たちはどうなるんだろうという不安がよぎる。ただ、なにもしなければ変わらないんだ。俺はひとつだけ深呼吸をして、覚悟を決めた。
 俺はゆっくりと今の状況を説明した。今日は学内ピアノコンクールの本戦に参加したこと、入賞できなかったこと、会場で跡部さんに会ったこと、跡部さんが日吉と俺が一年以上会っていないことを聞いたこと。そして、それを跡部さんは不自然に思ったこと。

「それであの人はこんなことを……!」

 日吉は唇を強く嚙みながら、激しく怒るような表情で言った。

「日吉は嫌だったかもしれないけど、やっぱり俺、日吉と話がしたくて……」
「なにを今更……! 連絡先を消したのはおまえじゃないか」
「そう、だけど。話したかったけど、日吉になに言われるか怖くて」
「俺が鳳に言えることはもうなにもねぇよ」

 日吉は俺から目をそらして、静かに言った。なにかを悟った雰囲気だった。そして、彼は立ち去ろうとしていたので、俺は引き止めるように口を開いた。

「日吉は覚えてる? 最後にあった日のこと」

 俺は言った。この問いかけは彼をつなぎ止められるか、もう二度と会えないか、どちらかになるだろうとわかっていたが、自分の心を止めることはできなかった。

「……謝ってほしいなら百万回でも謝る。もう俺の顔が見たくなければ、もう二度と鳳の前にあらわれない。俺が憎ければ、社会的に殺したっていい」

 日吉は俺に背中を向けたまま言い捨てるようにつらつらと答えた。

「そんな……! 謝るとか、憎いとか、そういうんじゃないよ……。ねぇ、覚えてる? 思い出した?」

 日吉はうなずいた。目に手を当てているようだった。いつかのタイミングで記憶がよみがえり、もう思い出したくなかったのだろう。ごめん、と思いつつも、俺は話を続けた。

「俺の話を聞いてほしい。あの日から日吉の表情もそうだし、手とか、その、唇の感触とか、熱っぽい感じが離れなくて。でも、日吉は覚えてなさそうだったから、どうすればいいかわからなかったんだ。だから忘れようと思って、連絡先も消して、忙しくしてた。あの日のこととか、日吉のことを忘れようとしたら、いろんなことがうまくいかなくなって……だから、もう一度日吉に会えたらどうなるんだろうってずっと考えてたんだ」

 俺は言った。すると、日吉への感情が舞い上がった。こそばゆくて、甘くて、今は少し切なさもあった。忘れようと思ったけど、そんなことできなかったんだ。この気持ちをなくしたのでもない、俺の心の底に沈んでいた。そして、再びぶわりと心の中に舞い上がっている。きっとこれが人を想う気持ちなんだろう。
 俺はずっと誰かとめぐり合うものだと思っていた。けれど、俺の行き着く先はそうではなかった。もうずっと、近くにいたんだ。あまりに当たり前の存在だったけれど、離れてようやくわかった。そして、どうすればいいかも、もうわかっている。それは日吉が俺に教えてくれた。

「……俺、日吉のことが好きなんだ」

 ──好きになった人に好きって言えばいいだろ。

 あの日の日吉の言葉どおりにした。迷う俺を優しく救い上げてくれた、とてもシンプルなこと。
 俺は、心に舞い上がったこの気持ちに名前をつけた。言葉にすると、気持ちが心にすとんと落ちてくる。気持ちをもう伝えられないのかと流した涙が消えていき、心に温かさがともる感じがする。そして、日吉への気持ちだけじゃなくて、俺自身の感性とか、俺にとって大切なものを取り戻せる気がした。

「俺を好き? まぁそうかもな……」

 俺の言葉を聞くと日吉は空を見るように、顔を上げて、静かに言った。今にも消えそうな声をしていた。

「うん」
「おまえは優しいからな。誰のことも、みんな好きだろ」
「そういう意味じゃないよ。あの日相談しただろ? 日吉が好きになった人を好きって言えばって、教えてくれたから……」

 俺がそう言うと、日吉は顔に当てていた手を払い、目を大きく開けてこちらに振り向いた。

「鳳が俺を好きになる? そんなことあるわけねえだろ!」

 日吉は俺の胸ぐらを突然つかんだ。あの夜との触れ合いとは全然違い、ただ荒々しかった。日吉は憎くてたまらないように、鋭く睨む。ただ、その瞳は俺ではなく、別のものに向かっている気がした。おそらく、日吉が彼自身に向けている。

「日吉……」
「鳳が俺を好きになることなんかない。これは絶対だ。もう俺の前からいなくなれよ……」

 荒々しい叫びは次第に小さくなり、最後の声はかすれていた。この言葉すら俺へのものではなく、自分自身に言い聞かせているようなものだった。今、日吉は俺を見ていない。俺が悲しみの中にいたように、日吉も彼自身の後悔の中に沈んでいる。
 俺は思わず彼をそっと抱きしめたくなった。けれど、俺が顔を上げると女子学生数人がひそひそと話しながらこちらを見ているのが目に入った。外から見たら、怖い光景かもしれない。

「日吉。なんか俺たち、喧嘩してると思われてるみたい……別のところ行こっか」

 俺は言った。

「もう話すことなんかないだろ。帰れよ」

 日吉は我に返ったのか、ゆっくりと俺の胸ぐらから手をほどいた。そして、手をはたきながら言った。その言葉を聞いて、もう彼は俺の前に姿を見せないつもりなのだと直感した。そんなこと、絶対にさせない。

「嫌だ。日吉は俺に悪いって思ってるんだろ。そしたら、ひとつだけ言うこと聞いて。今から日吉の家行きたい」

 俺ははっきりと言った。

「……来たらあの夜のことを思い出すぞ」
「違うよ、思い出すんだ。そのことに向き合って、どうするかはふたりで話そう」

 日吉は俺から顔を背けて、舌打ちをした。そして、なにも言わずに歩きはじめた。俺はそれについて行った。
 大学から出て駅までのいちょう並木の一本道をふたりで歩いた。こうやって並んで歩くのはいつぶりだろうか。きっとあの日の夜以来だ。
 お互いになにも話さないから、車のエンジン音と枯れ葉の乾いた音がざわざわと聞こえてくる。からっとした葉の香りがした。俺は空を見上げた。西日はもう消える寸前だったが、陽は遠くから強いオレンジを放っていた。透けそうなグレーの空とそれが混じり合い、その境界線は光るような金色をしていた。そんな景色もふたりで歩いた。ひとつひとつは曖昧な光景だが、それらが重なるとぴったりはまったように美しくなり、まるで夢の中にいるような景色だった。この景色と同じように、彼とふたりでいれるのも奇跡みたいだった。


 アパートに着いて、日吉は部屋に上げてくれた。部屋を見ると、ベッドは物も配置も変わっていて、カーテンや机も違うものになっていて、はじめて入るみたいに思えた。俺が来たときから、すっかり模様替えをしているようだ。日吉も、あの夜の事を思い出してから、何度も忘れる努力をしていたのが分かる。それはきっと、つらく、苦しい作業だっただろう。

「引っ越しだけは理由がつかなくてできなくてな」

 日吉はそうぽつりとつぶやいて、ケトルに水を入れた。部屋を見たら追い出されるかもしれないと思っていたが、そうではないようで安心した。俺は荷物を地面に置いて、ベッドに腰を下ろした。シーツはさらさらと肌触りがよく、清潔な香りがした。それは几帳面な彼らしかった。
 部屋の景色が変わっても、あの夜のことはすっと頭によみがえる。熱気のこもった真夜中の部屋。薄暗いオレンジ色の天井。焦がれるような日吉の瞳。俺の体に触れる日吉の手と唇。でも、もう心臓が高鳴って苦しくなることはなかった。心には彼を好きだという愛おしさがじわじわと満ちてくる。

「それで思い出したか?」

 日吉は机に紅茶を置いて、俺の隣に腰掛けた。彼の口調は、思いのほか優しかった。先ほどよりは冷静になったようだ。あの美しい並木道の景色を見て、彼も落ち着いたのだろうか。

「うん。日吉は、あの夜のことはなかったことにしたい?」

 俺は聞いた。

「……それはもうできないだろ」
「うん、それがいい。忘れないほうがいいと思う。なかったことにすると、大切なものも全部なくなる」
「だけど、俺が鳳の近くにいることはもうしない」
「どうして? それは嫌だよ」
「俺が鳳を求めることなんか、もうできないだろ」

 日吉は顔を下に向けて言った。俺は追いかけるように彼の顔をのぞき込んだ。

「じゃあ、俺が求めてもいいかな。俺、これからも日吉の隣にいたい。日吉のことが好きだから」

 なるべく優しく言うようにつとめた。すると、日吉は俺の目をのぞいた。

「それは、俺を許すために言ってるんじゃないのか」
「許す……? そんなんじゃない。俺の本心だよ」

 俺は言った。許すという言葉に、俺は驚いた。思ってもみなかった言葉だった。俺は思わず目を見開いた。
 会ってから俺から目をそらしていた日吉が、今はすがるように俺を見つめている。もしかして、彼は許しを求めているのかもしれない。そんなことが頭によぎった。
 俺は日吉の手首を握って、そっと引き寄せた。そして、優しく抱きしめた。日吉は俺のしぐさを素直に受け入れた。

「俺は日吉のことをはじめから許しているよ」

 なぜ今こんな触れ合いをしているのか、伝わるように言った。好きというありきたりな気持ちすら、きちんと口にしないと伝わらない。思い返せば、俺たちは幼馴染という関係に甘えて、言葉が少なかったかもしれない。だから、今はしっかりと伝えるために言葉にした。

「俺は……」

 日吉は、俺の胸に頭を寄せて、服の袖をぎゅっと握りしめた。俺をつかむ手は小さく震えていた。

「俺は、おまえを……幸せにしてやりたかった。だけど、傷つけた。……おまえだけは、傷つけなくなった」

 普段の日吉とは違う、切実な声色をしていた。あまりの切なさに、悲しくなるほどだった。
 俺は片手を彼の片手にそっと添えた。すると、手の上に、涙の粒がひとつこぼれた。
 日吉は、俺にしたことを深く悔いている。なくすことも忘れることもできない、取り返しのつかないことだと、苦しんで震えている。そのことが痛いくらいに伝わってきた。
 決して言葉にしなかったが、あの夜のことを思い出してから、それだけじゃなくて、俺への気持ちを抱いたときから、日吉はずっと許されたかったのだろうか。
 今の彼には許しを与える神様とか、そういったものが必要なんだと思う。彼を苦しみから救い出せるなら、なんだって、いい。友達だって、恋人だって、……神様にもなろう。
 俺は日吉を包み込むように、彼の髪を繰り返し丁寧になでた。日吉の涙と震えが止まるまで、ずっと寄り添い続けた。そして、日吉の心が癒えた先に、ふたりが持っている気持ちがあふれて、つながれるだろう、と思った。